少量脱酸の技術(2)

 1940年代にウィリアム・バロウは、ラミネーション法と組み合わせて劣化資料の修復・保存処置として適用しましたそして処置済みの紙の劣化試験を繰り返し、脱酸が紙(酸性紙)の劣化を抑止することを確認し、またこの処置による資料への害もほとんどないと結論しました。その結果、この水性脱酸が酸による劣化に対して有効であることが広く認められ、1940〜1950年代には欧米の図書館、公文書館、修復工房等で導入されるようになりました。

 バロウは最初に水酸化カルシウム/炭酸カルシウムの溶液による二槽式脱酸法を開発しましたが、さらにこれを炭酸水素カルシウム/炭酸水素マグネシウム溶液の二槽式へと改良しました。これは、一槽目の水酸化カルシウム溶液のpHが比較的高いために、「資料へ何らかの害を与えることはないのか?」という指摘があったためと思われ、また二槽目を炭酸水素マグネシウム溶液に鉛鉱したのは、この溶液の方が炭酸カルシウムと比べて、約10倍の濃度(重量%)の溶液を作ることができ、処理との紙へのアルカリ残留物の量をより多くすることができるためです。

 バロウは使用するアルカリ物質としてカルシウム化合物、後にマグネシウム化合物を採用しましたが、この理由は保存状態の良い昔の紙を分析した結果、中に炭酸カルシウムや炭酸マグネシウムが含まれており、それが保存性の向上に役立っていると考えたためです。

〜バロウ二槽式脱酸法〜 W.J. バロウ修復所

1)最初の溶液
 水酸化カルシウム飽和溶液を作るには、水1Lあたり24gの水酸化カルシウムを徐々に混ぜる。水酸化カルシウムの水への溶解度は限られており、水温が25℃で1.5003gしか溶けない。ただ、これよりも水温を低くするとわずかに溶ける量が増加し、1.76gまでになる。こうして混ぜた状態のものは、しばらく置いておくと水に溶けない分の水酸化カルシウムが沈殿する。最初の上澄み液(水酸化カルシウムの飽和溶液)は流して捨てる。アルカリ度が強すぎて、紙に悪影響を及ぼし、また水に溶けていない微粒子が文書等の表面に付着して(註:飽和溶液のpHはほぼ一定となるはずで、十分に不溶物を沈殿させていれば問題ない。特級の試薬を用いれば、不純物の問題もほとんどない。)、ある種のインクのくすみになるからだ。上澄み液を流した瓶に最初と同じ量の水を入れ、瓶を揺らして底に沈んでいる水酸化カルシウムをよく混ぜる。透明な上澄みができたら、これを槽に注ぎ入れて、この中に文書を約20分浸す。瓶には再び同量の水を入れ、栓をしておく。必要な時に必要な分だけを槽に注ぎ、その分だけ瓶に水を加えることを繰り返して、約20回は使用可能。

 脱酸に使う水酸化カルシウムの飽和溶液は0.04規定(濃度)、pH12.0〜12.6である。水酸化カルシウムはやがて炭酸化してpHが低くなる。また、温度が上がれば水に溶けている水酸化カルシウムも炭酸塩化して水に溶けなくなり沈殿する。

文書は何枚か束にして(暑さ1〜2インチ)、ブロンズのメッシュスクリーンに挟み、液に浸す。槽の中に文書を入れたら、作業者は液がそれぞれの文書に良く触れるように注意深く液中で浮き沈みさせ、また空気が残らないように流す。こうして約20分浸し、槽から出したら2〜5分置いて水を切り、二番目の炭酸水素カルシウムの溶液に浸す。

2)二番目の溶液
 炭酸水素カルシウム溶液を作るのため、炭酸カルシウムは水1Lに対して0.0513gしか溶けない物質であるから、水1Lに対して24gの炭酸カルシウムを混ぜると、だいたい上記の比率の飽和溶液が上澄みとしてできる。次にこの混合液に二酸化炭素ガスを吹き込む。時間は短くても15分、ガスの吹き出し口は混合液を入れた容器の底に沈めて、液とガスとが良く混じり合うようにする。テイラー硬度で2.5〜3.0、pH6.0〜6.5になるまでガスを吹き込む。炭酸水素カルシウムが溶ける最大は、20℃で炭酸ガス飽和溶液1Lあたり110gである。透き通った上澄みを瓶から直接(あるいはサイフォン管)槽に入れる。

こうしてできた二番目の溶液濃度は約100分の0.15もしくはLあたり1.5gの炭酸水素カルシウム溶液である。溶液が落ち着いてきたら、スクリーンに乗せた文書の束を上澄み液に浸す。この時の文書の扱い方は、一番目の溶液の場合と同じ。浸す時間は約20分。炭酸水素カルシウムで中和した文書は、余分な液を流し落とし、スクリーンに挟んだままで一晩乾かす。まだ湿り気の残っている文書を吸取紙に挟み、製本用のプレスなどに入れて圧を加え、平らにする。

3)結論
 この二槽法による脱酸では、紙のpHは7.5と9.0の間になることが確認されている。修復家の中には、最初の水酸化カルシウム溶液のpH12.6はアルカリ度が高すぎてセルロース繊維を傷めるとの意見もあるが、そのような兆候が見られない。二番目の炭酸水素カルシウムの槽(pH6.2)は、紙の中の水酸化カルシウムを炭酸塩化するので、水酸化カルシウムが強アルカリとして紙の繊維を侵すことはない。カルシウムイオンは安定剤としての機能を発揮する。その他、目立った効果としては、二つのカルシウム溶液に浸した文書は、黄ばみが洗い流される感じがある。またセルロース繊維に含まれるリグニンや樹脂も溶液中に分散していくこともある。

 バロウ試験研究所では、様々な種類の紙にこの二槽法による脱酸を適用し、それを人工的に経時劣化させて効果を調べた。これによると、二槽法による脱酸は耐折、耐引き裂き特性のいずれにも極めて顕著な改善をもたらした。また、完全に中和され、残留アルカリも十分で、黄ばんだ紙の白さも取り戻せた。この白さは後からラミネーションを適用しても変化しなかった。バロウ二槽式浸漬脱酸法は以上のように安全かつ効果的な脱酸法であり、手作業による文書の保存に大きく寄与するものである。

 バロウ二槽式脱酸法に代表される水性脱酸法には、いくつかの欠点がある。処理に手間と時間がかかることや、処置の対象となる資料に条件がることなどが、この脱酸法の適用を限定的にしている。例えば、水溶性の色材が使われた資料や、紙の質によっては脱酸が不可能であったり、処置による不都合が生じたりする場合がある。コート紙のある種のモノは水を与えるとコート層が剥離したり、艶が失われたりする危険がある。また、コート層が水の内部への浸透性を妨げて、脱酸効果が期待できない場合もある。コート紙以外にも湿潤強度の極端に小さい紙や劣化が極度に進んでいる資料などへの適用は危険である。また、板紙も一般的には、水で膨れ上がってしまうので適さないでしょう。

 リグニンを含む紙(砕木パルプを含む紙)は、この処置によって黒ずむ傾向があると言われています。しかし、実際に行ったテストでは、やや色づくという程度の変色でした。したがって、リグニンを含む紙への水性脱酸は、資料の持つ価値の意味合いから判断されるべきで、絶対に行ってはならないわけではないと思われます。また、紙によっては水への浸漬により、各種の物理的強度が低下することがあります。これは、古い紙(タブサイズの行われているような)であれば、サイズ剤が抜けていまい、紙の張りがなくなるためと思われます。また、現代の紙では紙力向上のために種々の糊料が添加されており、その中の水溶性のものが水漬により溶け出してしまうために、紙力が低下するものと考えられます。しかし、これらは脱酸によって紙そのものが本質的に劣化を受けたということではないので、処置後に安全な物質でリサイジングを行うことにより回復が可能です。(注1:フォクシングについては、ある種のものは脱酸の水洗効果により薄くなると同時に、生成するアルカリ残留物がその発生を抑える効果があると言われている。)

 紙質の問題以外に、脱酸によって生成する残留物質の炭酸カルシウムや炭酸マグネシウムは弱アルカリ性(注2:脱酸溶液自体のpHについては、水酸化カルシウム溶液のpH12.0~12.6という値のため、高いのではないかと言われますが、実際に紙が作られるパルプ化工程では、はるかに過酷な化学的条件で処理が行われており、水酸化カルシウムの飽和溶液に短時間浸漬したことにより大きな影響が出るとは思えません。また、水酸化カルシウムは、紙中で炭酸カルシウムという、より穏やかなアルカリへと短時間で変化します。二槽目の炭酸水素カルシウムや炭酸水素マグネシウムの溶液のpHは中性か、炭酸イオンのために弱酸性となっており、これも紙が乾燥すれば炭酸カルシウム、炭酸マグネシウムへと変化します。重要なのは使用するアルカリの種類であり、より手軽に使えると思われるナトリウムやカリウムの化合物等は、紙に残留した場合にかえって変色や劣化を起こす可能性があります。これに対してカルシウム、マグネシウム、バリウム等の化合物はその心配は無いと考えられます。)なので、アルカリに弱い顔料(プルシアンブルー、黄鉛、硫黄など)に対して悪影響を及ぼす恐れがあります。したがって、一般的な活版(凸版)、凹版、平版(オフセットや石版)等の黒色刷りの史料ではほとんど問題がないと思われますが、それ以外の色の使われている資料では十分な注意が必要となります。このように水性脱酸はその処置でかなりの注意を必要とするものであり、大量脱酸に比べて処置能力も著しく劣りますが、独自の大きな利点があります。

 設備が比較的簡単にでき、使用する薬品等が手に入りやすく、割合と扱いやすいなどがあげられます。また、紙に対して水を使用することは、危険性もありますが、紙に対して特有の作用をもつゆえの利点、つまり水による洗浄作用があります。劣化資料はそのほとんどが変色やフォクシングを生じていたり、外部からの汚染物質のために汚れていたりします。水性脱酸の処置によって水が紙の繊維を膨潤させ、汚染物質を洗い出しやすくすることで、それらの物質のかなりを洗い流すことができます。この効果は他の溶剤などに比べて高いものとなります。また、劣化してしなやかさを失った紙が、水で処置されたことにより、紙本来の物性を取り戻すこともあります。

 書籍の場合には、この脱酸処置をするには一度解体しなければなりませんが、資料の中には脱酸の有無にかかわらず解体の必要なものもあります。このような場合には脱酸と補修、あるいはリサイジングに代表されるような様々な紙の強化(注3:脱酸それ自体は基本的には紙中の酸を中和し、アルカリ残留物を生成するだけで、劣化した紙の物理的な強度を回復するものではありません。これは大量脱酸についても同様です。)というような種々の保存処置をひとつの流れとして導入できます。

 バロウの二槽法処置の実際について少々解説します。まず、この方法に限らず、処置に入る前に資料の耐水性、耐アルカリ性をスポットテストにより確認します。また同時に資料のpHを測定しておきます。さらに脱酸液へ浸漬する前に、資料をドライクリーニングしておきます。あらかじめ資料に付着したホコリやスス等の汚れを取り除いておかないと、水によってかえって紙の繊維の内部へ汚染を定着させてしまう危険があります。

 溶液の作成に使う薬品は、試薬用の一級以上、できれば特級のものを使用します。また水酸化カルシウムは比較的強いアルカリのため、目に入ると危険です。手に付いた程度ならば水で洗い流せば問題はありません。ただ、この溶液に長時間触れる場合には、素手だと手荒れを起こす恐れもあるので、ゴム手袋などを使用すると良い。炭酸カルシウムについてはこのような問題はありません。

 脱酸に限らず、さまざまな保存処置に使用する水は、細かいところでは糊を作る水も、有害な金属イオン(鉄、銅、クロム、マンガンなど)が含まれているとしても、微量以下でなければなりません。一般に水道水(飲料水)の基準を満たしていれば良いと思いますが、水道水でも一度貯水槽へ貯めてから使用する場合など、貯水槽内部の錆が混入する恐れがあります。古い配管を使用している場合も同様です。このような場合には、精製水を使用するか、水道水を純粋製造機に通してから使用するのが最良です。

 次に実際の作業工程に関する解説をします。まず、二槽目の脱酸液の作成ですが、アクリル樹脂等でできた円筒形水槽状の容器を用意します。この容器に炭酸ガスを吹き込むためのパイプ(ステンレスやガラス製)を設置するわけですが、パイプの先にスポンジ等を付けます。ガスの泡を細かくするためです。スポンジを付けたパイプの先が容器の底に届くように設置します。炭酸ガスは、少量の溶液の作成ならばドライアイスで良いのですが、多量の場合には炭酸ガスのボンベから供給します。

溶液生成の反応は

CaCO3 + CO2 + H2O ⇄ Ca(HCO32

となります。生成する炭酸水素カルシウムCa(HCO32は、紙が乾燥するに伴い炭酸カルシウムに戻ります。

 処置に使用する網は、バロウの原文では「ブロンズのメッシュスクリーン」となっていますが、現在では合成樹脂(ポリエステルやナイロン等)のネットやステンレス製の細かい網などが良いでしょう。乾燥に使用する吸取紙は、もちろん無酸でリグニンを含まないものを使用します。化学用の厚手の濾紙などが適当です。脱酸後の資料はすぐに濾紙に挟まずに(濾紙で脱酸液を吸い取ってしまうと、結果的にアルカリ残留量が減ってしまう)ポリエステルの不織布等に挟み、ある程度乾燥するまで軽くプレスしておき、それから濾紙に挟んで十分に乾かす方が良いでしょう。乾燥の際にあまり強くプレスすると、資料によっては紙の風合いが失われたり、活版印刷や凸版特有の立体感が失われてしまうので注意しなければなりません。