私どもが修復を依頼された本の中に外観は完全に洋装だが、普段扱い慣れている一般的な洋装本と比べてその重量が異様に軽いものがありました。少し調べてみると、「岡見彦三版の和刻本蘭書」(詳細は後述)であることが分かり、このことがきっかけとなって「和刻本蘭書」について色々と調べてみました。なお、これから先の内容は昨年1月に行われた和紙文化研究会第226回例会で報告したものを再構成したものとなります。
和刻本蘭書とは、簡単に言うと江戸時代末期の1856年から1862年の間のだいたい7年間に日本国内(主に長崎と江戸)で印刷されたオランダ語の書物ということになります。
1.歴史
1)幕末期の洋学(蘭学)をめぐる状況
寛政年間(1789~1800年)にロシアの南下政策が開始され、本格的にロシア船が来航するようになると、日本国内で海防意識が高まりました。これより少し前の天明七年(1787)から寛政三年(1791)にかけて林子平が外国勢力を撃退するには近代的な火力を備えた海軍の充実と全国的な沿岸砲台の建設が無ければ不可能であると説いた『海国兵談』を刊行しました。このような対外危機感の中で、海外知識を摂取することが急務となり、蘭学が次第にブームになっていきました。
★当時の海外情報入手手段
①阿蘭陀風説書・唐風説書
阿蘭陀風説書・・・出島のオランダ商館長が幕府に提出していたヨーロッパ・インド・中国(清)の最新出来事を記述したもで、オランダ船が入港するたびに提出されていた。
②オランダ・中国(清)から輸入される蘭書などの書籍による情報
③上記以外の様々な(個人的な関係からの)情報
蘭書による情報は、西洋についての有力な情報源として原語で読まれたり、あるいは翻訳本を通して流布していき、情報の正確さと言う点で蘭書は広く受け入れられました。
しかし、モリソン号事件(1837年)と蛮社の獄(1839年)により、いったん蘭学が禁止されるということが起こりましたが、アヘン戦争(1840~1842年)の清国敗北とその伝達、そして嘉永六年(1853)ペリー来航を迎え、対外危機を乗り切る手段として蘭学が再評価されました。
★アヘン戦争が日本に与えたインパクト
アヘン戦争から西洋の科学技術力を認識することとなり、西洋の兵学・砲術などの習得の必要性を痛感しましたが、幕府や各藩が西洋式兵制や軍艦購入を本格的に検討したのはペリー来航と翌年の開国からでした。同時に西洋科学を受容するための外国語習得に対して、幕府では洋学所や海軍伝習所の設立、各藩では蘭学者を招いて藩校での洋学教授や他の藩校ないし私塾への藩費留学などを行うようになりました。実際、適塾などを始めとした蘭学塾の入塾希望者も増加していきました。
つづく。。。


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