安政二年(1855)5月2日・・・オランダ商館長日誌に「阿蘭陀通詞品川藤兵衛が長崎のオランダ印刷所(Hollandsche Drukkerij)で刷った校正刷を持ってきた。そしてヨーロッパ式の鋳造法で造られた長崎製の洋活字とオランダ製の紙に似せた模造の紙を使い、交易商社で1848年に刊行されたオランダ語の文法書『シンタキス』を復刻、出版するために日本政府の許可を取った。」という記録が残っています。
ここから分かることを整理すると、
①初版出版(1856年6月)の約1年前には『シンタキス(和蘭文典成句論)』の校正刷ができていた。
②使用活字の大部分は長崎で鋳造した。
③本文紙がオランダの紙に模して作られた和紙。(洋紙を模しながらも異なり、軽量なのも特徴的な紙)
④オランダ印刷所とは、出島に印刷施設が既にあったのか?それとも買い受けた機械で印刷したものなのか?
★校正刷を行った安政二年(1855)段階での蘭学をめぐる国内状況
①国内一般に蘭学が普及し、その研究者もまた増加
②諸外国との間には外交関係が活発化(日米・日英・日露和親条約と次々に条約を締結)
③江戸で洋学所、長崎で海軍伝習所などが新設され、洋学研究のための教科書や参考書の需要が多かった。
④長崎の阿蘭陀通詞の語学研修用にも蘭書を必要とした。
このような蘭学をめぐる状況を受けて、校正刷を行った翌月
安政二年(1855)6月・・・長崎奉行荒尾石見守成允(しげまさ)が、老中阿部伊勢守正弘に対し「阿蘭陀活字板蘭書摺立之儀ニ付奉伺候書付」を提出し、以下のように建白を行っています。
①近年、諸家より洋書を買い求めたい希望が増えており、出島オランダ商館へ注文しているが注文通りの部数が来ない。
②蘭書が払底していては、阿蘭陀通詞の修行も十分に行き届かない。
③舶載書に頼ってばかりでは差し支えがちである。
④先年(1848年)、阿蘭陀通詞がオランダ人より買い受けた「蘭書活字板」があるので(長崎)会所銀で買い上げておいたところ、試しに刷った(校正刷り)出来栄えがそこそこであり、必要な書籍の種本もあるので、役所で植字して印刷し、当地の会所から売れば便利である。
⑤これらのことは、嘉永三年(1850)9月21日の蘭書取締方についての書付(「戌年蘭書之儀」)に背かないように取り計らうつもりである。
※「戌年蘭書之儀」・・・舶載蘭書名を書き出して、許可したものだけを流布させる。これに漏れた蘭書の所持・翻訳をしたものは没収して吟味する。大名が海岸防備のための蘭書翻訳にも書名を老中へ届出て、翻訳できたものは一部天文方へ差し出す。
※天文方・・・幕府の科学研究機関で主に編暦を行う。幕末には編暦以外にも天文や測量、地誌、洋書翻訳なども行い、蕃書調所までつながっている。
この建白書から荒尾石見守は次のようなことを考えていたと推察されています。
①復刻された蘭書を舶載蘭書の扱いと同様に考えている。
②西洋印刷機を用いて印刷する。
③西洋のものと同様に製本する予定。(これ以前に復刻されている箕作阮甫版などの和装本と区別する意識の表れ)
★当時、蘭書は貿易品目にはなく、輸入ルートとしては①オランダ東インド会社から将軍家へ献呈、②出島商館員が阿蘭陀通詞に個人的に譲る、③蘭学者などの希望に応じて阿蘭陀通詞が発注、④出島オランダ商館員が日本での需要を考えて私貿易で持ち込んだ「脇荷」へと発展して幕末の大量洋書輸入に至っています。
★幕末の蘭書輸入量
安政三年(1856)    1394冊
安政四年(1857)    3779冊
安政五年(1858)   12614冊
万延元年(1860)    7240冊
※安政三年から安政五年の間で約9倍に増えていることが分かります。1860年での減少は、英米書物に対して蘭書自体の重要性が低くなったためと考えられています。
次回、本格的な「長崎版」の刊行開始へつづく。。。


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